神秘内容 Loading...

桐壺(きりつぼ)
與謝野晶子訳 (来源:英语交友 http://friends.englishcn.com)

紫のかゞやく花と日の光思ひあはざることわりもなし
晶子

どの天皇様の御代(みよ)であったか、女御(にょご)とか更衣(こうい)とかいわれる後宮(こうきゅう)がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深いご寵愛(ちょうあい)を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力にたのむところがあって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬(しっと)の炎を燃やさないわけもなかった。夜の御殿(おとど)の宿直所(とのいどころ)からさがる朝、つづいてその人ばかりが召される夜、目に見、耳に聞いてくやしがらせた恨みのせいもあったか、からだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へさがっていがちということになると、いよいよ帝(みかど)はこの人にばかり心をおひかれになるというごようすで、人がなんと批評しようとも、それにご遠慮などというものがおできにならない。ご聖徳を伝える歴史の上にも暗い影のひとところ残るようなことにもなりかねない状態になった。高官たちも殿上(てんじょう)役人たちも困って、ご覚醒(かくせい)になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどのご寵愛ぶりであった。唐(とう)の国でもこの種類の寵姫(ちょうき)、楊家(ようか)の女の出現によって乱が醸(かも)されたなどと陰(かげ)ではいわれる。今や、この女性が一天下のわざわいだとされるにいたった。馬嵬(ばかい)の駅がいつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気(ふんいき)の中でも、ただ深いご愛情だけをたよりにして暮していた。父の大納言(だいなごん)はもう故人であった。母の未亡人が生れのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢力のある派手(はで)な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者をもたぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。

 前生(ぜんしょう)の縁が深かったか、またもないような美しい皇子(おうじ)までがこの人からお生れになった。寵姫を母とした御子(みこ)を早くごらんになりたい思召(おぼしめ)しから、正規の日数がたつとすぐに更衣母子(おやこ)を宮中へお招きになった。小皇子は、いかなる美なるものよりも美しい顔をしておいでになった。帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生れになって、重い外戚(がいせき)が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌(びぼう)にならぶことがおできにならぬため、それは皇家の長子としてだいじにあそばされ、これはご自身の愛子として、ひじょうにだいじがっておいでになった。更衣ははじめから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった、ただ、お愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女といってよいほどのりっぱな女ではあったが、しじゅうおそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催(もよお)し事をあそばすさいには、だれよりもまず先にこの人を常の御殿(おとど)へお呼びになり、またある時はお引きとめになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができず、そのまま昼も侍(じ)しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生れになって以後、目に立って重々しくお扱いになったから、東宮(とうぐう)にも、どうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子のご生母の女御は疑いをもっていた。この人は帝のもっともお若い時に入内(じゅだい)した最初の女御であった。この女御がする非難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかった。この女御へすまないという気もじゅうぶんにもっておいでになった。帝の深い愛を信じながらも、悪くいう者と、何かの欠点を探し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無力な家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった。

 住んでいる御殿は御所の中の東北のすみのような桐壺(きりつぼ)であった。いくつかの女御や更衣たちの御殿の廊(ろう)を通(かよ)い路(みち)にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直(とのい)をする更衣があがりさがりして行く桐壺であったから、しじゅうながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量(かさ)んでいくのも道理といわねばならない。召されることがあまりつづくころは、打橋(うちはし)とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪いしかけがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾(すそ)が一度で痛んでしまうようなことがあったりする。またあるときは、どうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠(じょう)がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしがいい合せて、桐壺の更衣の通り路をなくして辱(はずか)しめるようなことなどもしばしばあった。数えきれぬほどの苦しみを受けて、更衣が心を滅入(めい)らせているのをごらんになると、帝はいっそう憐(あわ)れを多くお加(くわ)えになって、清涼殿(せいりょうでん)につづいた後涼殿(こうりょうでん)に住んでいた更衣を外へお移しになって、桐壺の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮(こうきゅう)よりもまた深くなった。

 第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着(はかまぎ)の式がおこなわれた。前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手(はで)な準備の費用が宮廷から支出された。それにつけても世間はいろいろに批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌と聰明(そうめい)さとが類のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった。有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生れてくるものかとみな驚いていた。その年の夏のことである。御息所(みやすどころ)(皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれるのである)はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが、帝はおゆるしにならなかった。どこかからだが悪いということはこの人の常のことになっていたから、帝はそれほどお驚きにならずに、

「もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよい」といっておいでになるうちにしだいに悪くなって、そうなってからほんの五六日のうちに病は重体になった。母の未亡人は泣く泣くお暇(ひま)を願って帰宅させることにした。こんな場合にはまたどんな呪詛(じゅそ)がおこなわれるかもしれない、皇子にまでわざわいをおよぼしてはとの心づかいから、皇子だけを宮中にとどめて、目立たぬように御息所だけが退出するのであった。このうえとどめることは不可能であると帝は思召(おぼしめ)して、更衣が出かけて行くところを見送ることのできぬご尊貴の御身(おんみ)のものたりなさを堪えがたく悲しんでおいでになった。

 はなやかな顔だちの美人がひじょうに痩(や)せてしまって、心の中には帝とお別れしていく無限の悲しみがあったが、口へは何も出していうことのできないのがこの人の性質である。あるかないかに弱っているのをごらんになると、帝は過去も未来もまっ暗になった気があそばすのであった。泣く泣くいろいろなたのもしい将来の約束をあそばされても、更衣はお返辞もできないのである。目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ているのであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心(おおみこころ)を襲うた。更衣が宮中から輦車(てぐるま)で出てよいご許可の宜旨(せんじ)を役人へお下(くだ)しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると、今行くということをおゆるしにならない。
「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」

と、帝がおいいになると、そのお心もちのよくわかる女も、ひじょうに悲しそうにお顔を見て、

「限りとて別るる道の悲しきに
   いかまほしきは命なりけり
 死がそれほど私に迫ってきておりませんのでしたら」

 これだけのことを息も絶え絶えにいって、なお帝においいしたいことがありそうであるが、まったく気力はなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷(きとう)も高僧たちがうけたまわっていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申しあげて方々から更衣の退出をうながすので、別れがたく思召しながらお帰しになった。

 帝は、お胸が悲しみでいっぱいになって、お眠りになることが困難であった。帰った更衣の家へお出しになる尋(たず)ねの使いはすぐ帰って来るはずであるが、それすら返辞を聞くことが待ちどおしいであろうと仰(おお)せられた帝であるのに、お使いは、

「夜半過ぎにお卒去(かくれ)になりました」

といって、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると、力が落ちてそのまま御所へ帰って来た。
更衣の死をお聞きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引籠(こも)っておいでになった。その中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服(きふく)中の皇子が、けがれのやかましい宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった。皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れてばかりいるのだけをふしぎにお思いになるふうであった。父子の別れというようなことはなんでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心もちほどお気の毒なものはなかった。

 どんなに惜しい人でも、遺骸(いがい)は遺骸として扱われねばならぬ葬儀がおこなわれることになって、母の未亡人は遺骸と同時に火葬の煙になりたいと泣き焦(こ)がれていた。そして葬送の女房の車にしいて望んでいっしょに乗って愛宕(おたぎ)の野にいかめしく設けられた式場へついた時の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう。

「死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷(まよ)いをさますために行く必要があります」

と賢そうにいっていたが、車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った。

 宮中からお使いが葬場へ来た。更衣に三位(み)を贈(おく)られたのである。勅使がその宣命(せんみょう)を読んだ時ほど未亡人にとって悲しいことはなかった。三位は女御に相当する位階である。生きていた日に女御ともいわせなかったことが帝には残り多く思召されて贈位をたまわったのである。こんなことででも後宮のある人々は反感をもった。同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさなどで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壺の更衣の真価を思い出していた。あまりにひどいご殊寵(しゅちょう)ぶりであったから、その当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていた。やさしい同情深い女性であったのを、帝つきの女官たちはみな恋しがっていた。「なくてぞ人は恋しかりける」とは、こうした場合のことであろうと見えた。時は人の悲しみにかかわりもなく過ぎて、七日七日の仏事がつぎつぎにおこなわれる、そのたびに帝からはお弔(とむら)いの品々が下された。
愛人の死んだのちの日がたっていくにしたがって、どうしようもない寂(さび)しさばかりを帝はお覚えになるのであって、女御、更衣を宿直(とのい)に召されることも絶えてしまった。ただ涙の中のご朝夕であって、拝見する人までが湿(しめ)っぽい心になる秋であった。

「死んでからまでも人の気を悪くさせるご寵愛ぶりね」

などといって、右大臣の娘の弘徽殿(こきでん)の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。帝は一の皇子をごらんになっても更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお覚えになって、親しい女官や、ご自身のお乳母(めのと)などをその家へおつかわしになって若宮のようすを報告させておいでになった。

 野分(のわき)ふうに風が出て肌寒(はださむ)の覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人(こじん)がお思われになって、靫負(ゆげい)の命婦(みょうぶ)という人を使いとしてお出しになった。夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深いもの思いをしておいでになった。以前にこうした月夜は音楽の遊びがおこなわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜に詠(よ)む歌なども平凡ではなかった。彼女の幻(まぼろし)は帝のお目に立ち添ってすこしも消えない。しかしながら、どんなに濃(こ)い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。

 命婦は故大納言家について車が門から中へ引き入れられた刹那(せつな)から、もういいようのない寂しさが味わわれた。未亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがないようにと、りっぱな体裁(ていさい)を保って暮していたのであるが、子を失った女主人の無明(むみょう)の日がつづくようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの野分(のわき)の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさしこんだその南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人は、すぐにもものがいえないほどまたも悲しみに胸をいっぱいにしていた。

「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅうございますのに、こうしたお使いがあばら家へおいでくださると、またいっそう自分がはずかしくてなりません」といって、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く。

「こちらへあがりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍(ないしのすけ)は陛下へ申しあげていらっしゃいましたが、私のよう浅薄な人間でもほんとうに悲しさが身にしみます」
といってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。

『当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやくおちつくとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですが、それもありません。目立たぬようにして時々御所へ来られてはどうですか。若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい』
「こういうお言葉ですが、涙にむせかえっておいでになって、しかも人に弱さを見せまいとご遠慮をなさらないでもないごようすがお気の毒で、ただ、おおよそだけをうけたまわっただけで参りました」
といって、また帝のお言(こと)づてのほかのご消息を渡した。
「長生きをするからこうした悲しい目にも会うのだと、それが世間の人の前に私をきまりわるくさせることなのでございますから、まして御所へ時々あがることなどは思いもよらぬことでございます。もったいない仰せをうかがっているのですが、私が伺候(しこう)いたしますことは今後も実行はできないでございましょう。若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますものと見えて、御所へ早くおはいりになりたいごようすをお見せになりますから、私はご道理(もっとも)だとおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに申しあげてくださいませ。良人(おっと)も早く亡(な)くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ずくめの私がごいっしょにおりますことは、若宮のために縁起(えんぎ)のよろしくないことと恐れ入っております。」などといった。そのうち若宮も、もうおやすみになった。

「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしくごようすも陛下へご報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それでは、あまりおそくなるでございましょう」
といって命婦は帰りを急いだ。
「子を亡(な)くしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせていただきたいのですから、公(おおやけ)のお使いでなく、気楽なお気もちでお休みがてら、またお立ち寄りください。以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとはなんということでしょう。かえすがえす運命が私に長生きさせるのが苦しゅうございます。故人のことを申せば、生れました時から親たちに輝かしい未来の望みをもたせました子で、父の大納言はいよいよ危篤(きとく)になりますまで、この人を宮中へさしあげようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを捨てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、たしかな後援者なしの宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましては、ただ遺言を守りたいばかりに陛下へさしあげましたが、過分なご寵愛を受けまして、そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、みなさんのご嫉妬の積っていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいたしましたのですから、陛下のあまりに深いご愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛から私は思いもいたします」

 こんな話をまだ全部もいわないで未亡人は涙でむせかえってしまったりしているうちに、ますます深更(しんこう)になった。
「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながら、あまりに穏(おだ)やかでないほどの愛しようをしたのも前生(ぜんしょう)の約束で長くはいっしょにいられぬ二人であることを意識せずに感じていたのだ。自分らは恨めしい因縁(いんねん)でつながれていたのだ。自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信をもっていたが、あの人によって負ってならぬ女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって、湿(しめ)っぽいごようすばかりをお見せになっています」
 どちらも話すことにきりがない。命婦は泣く泣く、
「もうひじょうにおそいようですから、復命(ふくめい)は今晩のうちにいたしたいとぞんじますから」
といって、帰る仕度(したく)をした。落ちぎわに近い月夜の空が澄みきった中を涼しい風が吹き、人の悲しみをうながすような虫の声がするのであるから帰りにくい。
  鈴虫の声の限りを尽くしても
    長き夜飽(あ)かず降る涙かな
 車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。
 「いとどしく虫の音しげき浅茅生(あさじう)に
    露置き添ふる雲の上人
 かえってご訪問が恨めしいと申しあげたいほどです」
と未亡人は女房にいわせた。意匠を凝(こ)らせた贈物などする場合でなかったから、故人の形見(かたみ)ということにして、唐衣(からごろも)と裳(も)のひとそろえに、髪あげの用具のはいった箱を添えて贈った。
若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住居をしなれていて、寂しくものたらず思われることが多く、おやさしい帝のごようすを思ったりして、若宮が早く御所へお帰りになるようにとうながすのであるが、不幸な自分がごいっしょにあがっていることも、また世間に非難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛にも堪えきれる自信がないと未亡人は思うので、けっきょく若宮の宮中入りは実行性に乏(とぼ)しかった。

 御所へ帰った命婦は、まだ宵のままでご寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして、凡庸(ぼんよう)でない女房四五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。このごろしじゅう帝のごらんになるものは、玄宗(げんそう)皇帝と楊貴妃(ようきひ)の恋を題材にした白楽天(はくらくてん)の長恨歌(ちょうごんか)を、亭子院(ていじのいん)が絵にあそばして、伊勢(いせ)や貫之(つらゆき)に歌をお詠(よ)ませになった巻物で、そのほか日本文学でも、支那(しな)のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言家のようすをお聞きになった。身にしむ思いを得てきたことを命婦は外へ声をはばかりながら申しあげた。未亡人のご返書を帝はごらんになる。
 もったいなさをどうしまついたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せをうけたまわりましても、愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。
  荒き風防ぎし蔭の枯れしより
    小萩(こはぎ)が上ぞしづ心無き
というような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのためにおちつかない心で詠んでいるのであるからと寛大にごらんになった。帝は、ある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それがご困難であるらしい。はじめて桐壺の更衣のあがって来たころのことなどまでが、お心の表面に浮びあがってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと、自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いになった。
若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住居をしなれていて、寂しくものたらず思われることが多く、おやさしい帝のごようすを思ったりして、若宮が早く御所へお帰りになるようにとうながすのであるが、不幸な自分がごいっしょにあがっていることも、また世間に非難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛にも堪えきれる自信がないと未亡人は思うので、けっきょく若宮の宮中入りは実行性に乏(とぼ)しかった。

 御所へ帰った命婦は、まだ宵のままでご寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして、凡庸(ぼんよう)でない女房四五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。このごろしじゅう帝のごらんになるものは、玄宗(げんそう)皇帝と楊貴妃(ようきひ)の恋を題材にした白楽天(はくらくてん)の長恨歌(ちょうごんか)を、亭子院(ていじのいん)が絵にあそばして、伊勢(いせ)や貫之(つらゆき)に歌をお詠(よ)ませになった巻物で、そのほか日本文学でも、支那(しな)のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言家のようすをお聞きになった。身にしむ思いを得てきたことを命婦は外へ声をはばかりながら申しあげた。未亡人のご返書を帝はごらんになる。
 もったいなさをどうしまついたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せをうけたまわりましても、愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。
  荒き風防ぎし蔭の枯れしより
    小萩(こはぎ)が上ぞしづ心無き
というような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのためにおちつかない心で詠んでいるのであるからと寛大にごらんになった。帝は、ある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それがご困難であるらしい。はじめて桐壺の更衣のあがって来たころのことなどまでが、お心の表面に浮びあがってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと、自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いになった。
「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人へのむくいは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかもみな夢になった」
とおいいになって、未亡人にかぎりない同情をしておいでになった。
「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日がくれば、故人に后(きさき)の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」
などという仰せがあった。命婦は贈(おく)られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に会って得てきた玉の簪(かんざし)であったらと、帝はかいないこともお思いになった。

 尋ね行くまぼろしもがなつてにても
   魂(たま)のありかをそこと知るべく

 絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現はかぎりがあって、それほどのすぐれた顔ももっていない。太液(たいえき)の池の蓮花(れんげ)にも、未央宮(びおうきゅう)の柳の趣きにもその人は似ていたであろうが、また唐の服装は華美ではあったであろうが、更衣のもった柔らかい美、艶(えん)な姿態をそれに思いくらべてごらんになると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであった。お二人のあいだはいつも、天にあっては比翼(ひよく)の鳥、地に生れれば連理(れんり)の枝という言葉で永久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。秋風の音にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになるとき、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿(おとど)の宿直(とのい)にもおあがりせずにいて、今夜の月明にふけるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思召した。このごろの帝のお心もちをよく知っている殿上役人や帝づきの女房などもみな、弘徽殿の楽音に反感をもった。負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。
 月も落ちてしまった。
  雲の上も涙にくるる秋の月
    いかですむらん浅茅生(あさじう)の宿
 命婦がご報告した故人の家のことを、なお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。
右近衛府(うこんのえふ)の士官が宿直者の名を披露(ひろう)するのをもってすれば午前二時になったのであろう。人目をおはばかりになってご寝室へおはいりになってからも、安眠を得たもうことはできなかった。

 朝のお目ざめにもまた、夜明けも知らずに語り合った昔のご追憶がお心を占めて、寵姫(ちょうき)の在(あ)った日も亡(な)いあとも朝の政務はお怠りになることになる。お食欲もない。簡単なご朝食はしるしだけおとりになるが、帝王のご朝餐(ちょうさん)として用意される大床子(しょうじ)のお料理などは召しあがらないものになっていた。それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、それらの人はみなこの状態を嘆(なげ)いていた。すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると嘆いた。よくよく深い前生のご縁で、その当時は世の非難も後宮の恨みの声もお耳にはとまらず、その人に関することでだけは正しい判断を失っておしまいになり、また死んだあとではこうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない。国家のためによろしくないことであるといって、支那の歴朝の例までも引き出していう人もあった。

 幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。ごくお小さいときですら、この世のものとはお見えにならぬご美貌のそなわった方であったが、今はまた、いっそう輝くほどのものに見えた。その翌年、立太子のことがあった。帝の思召しは第二の皇子にあったが、だれという後見の人がなく、また、だれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、かえってその地位は若宮の前途を危険にするものであるとお思いになって、ご心中をだれにもお漏(もら)しにならなかった。東宮(とうぐう)におなりになったのは第一親王である。この結果を見て、あれほどの御愛子でもやはり太子にはおできにならないのだと世間もいい、弘徽殿の女御も安心した。そのときから宮の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないといって一心にみ仏の来迎(らいごう)を求めて、とうとう亡くなった。帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみになった。これは皇子が六歳のときのことであるから、今度は母の更衣の死に会ったときとは違い、皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。今までしじゅうお世話を申していた宮とお別れするのが悲しい、ということばかりを未亡人はいって死んだ。
それから若宮は、もう宮中にばかりおいでになることになった。七歳の時に書初(ふみはじ)めの式がおこなわれて学問をお始めになったが、皇子の類のない聰明さに帝はお驚きになることが多かった。
「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。母親のないという点だけでもかわいがっておやりなさい」
と帝はおいいになって、弘徽殿へ昼間おいでになるときもいっしょにおつれになったりして、そのまま御簾(みす)の中にまでもお入れになった。どんな強さ一方の武士だっても仇敵(きゅうてき)だっても、この人を見ては笑(え)みが自然に湧くであろうと思われる美しい少童(しょうどう)でおありになったから、女御も愛を覚えずにはいられなかった。この女御は東宮のほかに姫君をお二人お生みしていたが、その方々よりも第二の皇子の方がおきれいであった。姫宮方もお隠れにならないで賢い遊び相手としてお扱いになった。学問はもとより、音楽の才も豊(ゆた)かであった。いえば不自然に聞えるほどの天才児であった。

 その時分に高麗(こうらい)人が来朝した中に、じょうずな人相見の者がまじっていた。帝はそれをお聞きになったが、宮中へお呼びになることは亭子院(ていじのいん)のお誡(いまし)めがあっておできにならず、だれにも秘密にして皇子のお世話役のようになっている右大弁(うだいべん)の子のように思わせて、皇子を外人の旅宿する鴻臚館(こうろかん)へおやりになった。

 相人(そうにん)は不審そうに頭をたびたび傾けた。
「国の親になって最上の位を得る人相であって、さてそれでよいかと拝見すると、そうなることはこの人の幸福な道でない。国家の柱石になって帝王の補佐をする人として見てもまた違うようです」
といった。弁も漢学のよくできる官人であったから、筆紙をもってする高麗人との問答にはおもしろいものがあった。詩の贈答もして高麗人はもう日本の旅が終ろうとする期(ご)に臨(のぞ)んで珍しい高貴の相をもつ人に会ったことは、いまさらにこの国を離れがたくすることであるというような意味の作をした。若宮も送別の意味をお作りになったが、その詩をひじょうにほめて種々(いろいろ)なその国の贈物をしたりした。
朝廷からも高麗の相人へ多くの下賜(かし)品があった。その評判から東宮の外戚の右大臣などは第二の皇子と高麗の相人との関係に疑いをもった。好遇された点が腑(ふ)に落ちないのである。聰明な帝は高麗人の言葉以前に皇子の将来を見通して、幸福な道を選ぼうとしておいでになった。それで、ほとんど同じことを占(うらな)った相人に価値をお認めになったのである。四品(ほん)以下の無品親王などで、心細い皇族としてこの子を置きたくない、自分の代もいつ終るかしれぬのであるから、将来にもっともたのもしい位置をこの子に設けておいてやらねばならぬ。臣下の列に入れて国家の柱石たらしめることがいちばんよいと、こうお決めになって、以前にもましていろいろの勉強をおさせになった。大きな天才らしい点のあらわれてくるのをごらんになると、人臣にするのが惜しいというお心になるのであったが、親王にすれば天子にかわろうとする野心をもつような疑いを当然受けそうにお思われになった。じょうずな運命占いをする者にお尋(たず)ねになっても同じような答申をするので、元服後は源姓をたまわって源氏の某(なにがし)としようとお決めになった。

 年月がたっても帝は桐壺の更衣との死別の悲しみをお忘れになることができなかった。慰みになるかと思召して美しい評判のある人などを後宮へ召されることもあったが、結果はこの世界には故更衣の美に準ずるだけの人もないのであるという失望をお味わいになっただけである。そうしたころ、先帝(帝の従兄(いとこ)あるいは叔父(おじ)君)の第四の内親王でお美しいことをだれもいう方で、母君のお后(きさき)がだいじにしておいでになる方のことを、帝のおそばに奉仕している典侍(ないしのすけ)は先帝の宮廷にいた人で、后の宮へも親しく出入りしていて、内親王のご幼少時代をも知り、現在でもほのかにお顔を拝見する機会を多く得ていたから、帝へお話しした。
「お亡(か)くれになりました御息所(みやすどころ)のご容貌に似た方を、三代も宮廷におりました私すらまだ見たことがございませんでしたのに、后の宮様の内親王様だけがあの方に似ていらっしゃいますことにはじめて気がつきました。ひじょうにお美しい方でございます」
もしそんなことがあったらと大御心が動いて、先帝の后の宮へ姫宮のご入内のことを懇切にお申し入れになった。お后は、そんな恐ろしいこと、東宮のお母様の女御が並はずれな強い性格で、桐壺の更衣が露骨ないじめ方をされた例もあるのに、と思召して話はそのままになっていた。そのうちお后もお崩(かく)れになった。姫宮がお一人で暮しておいでになるのを帝はお聞きになって、
「女御というよりも自分の娘たちの内親王と同じように思って世話がしたい」
と、なおも熱心に入内をお勧(すす)めになった。こうしておいでになって、母宮のことばかりを思っておいでになるよりは、宮中のご生活にお帰りになったら若いお心の慰みにもなろうと、おつきの女房やお世話係の者がいい、兄君の兵部卿(ひょうぶきょう)親王もその説にご賛成になって、それで先帝の第四の内親王は当帝の女御におなりになった。御殿は藤壺(ふじつぼ)である。典侍の話のとおりに、姫宮の容貌も身のおとりなしもふしぎなまで桐壺の更衣に似ておいでになった。この方はご身分に非の打ちどころがない。すべてごりっぱなものであって、だれも貶(おとし)める言葉を知らなかった。桐壺の更衣は身分とご寵愛とに比例のとれぬところがあった。お痛手が新女御の宮で癒(いや)されたともいえないであろうが、自然に昔は昔として忘れられていくようになり、帝にまた楽しいご生活が帰ってきた。あれほどのことも、やはり永久不変でありえない人間の恋であったのであろう。
源氏の君(まだ源姓にはなっておられない皇子であるが、やがてそうおなりになる方であるから筆者はこう書く)はいつも帝のおそばをお離れしないのであるから、自然どの女御の御殿へもしたがって行く。帝がことにしばしばおいでになる御殿は藤壺であって、お供して源氏のしばしば行く御殿は藤壺である。宮もお慣れになって隠れてばかりはおいでにならなかった。どの後宮でも容貌の自信がなくて入内した者はないのであるから、みなそれぞれの美をそなえた人たちであったが、もうみなだいぶ年がいっていた。その中へ若いお美しい藤壺の宮が出現されて、その方はひじょうにはずかしがって、なるべく顔を見せぬようにとなすっても、自然に源氏の君が見ることになる場合もあった。母の更衣は面影も覚えていないが、よく似ておいでになると典侍がいったので、子ども心に母に似た人として恋しく、いつも藤壺へ行きたくなって、あの方と親しくなりたいという望みが心にあった。帝には二人とも最愛の妃であり、最愛の御子であった。

「彼を愛しておやりなさい。ふしぎなほど、あなたとこの子の母とは似ているのです。失礼だと思わずにかわいがってやってください。この子の目つき顔つきがまたよく母に似ていますから、この子とあなたとを母と子と見てもよい気がします」
など、帝がおとりなしなると、子ども心にも花や紅葉(もみじ)の美しい枝は、まずこの宮へさしあげたい、自分の好意を受けていただきたいというこんな態度をとるようになった。現在の弘徽殿の女御の嫉妬の対象は藤壺の宮であったから、その方へ好意を寄せる源氏に、一時忘れられていた旧怨(きゅうえん)も再燃して憎しみをもつことになった。女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる幼内親王の美を遠く超(こ)えた源氏の美貌を、世間の人はいいあらわすために光君(ひかるのきみ)といった。女御として藤壺の宮のご寵愛が並びないものであったから対句のように作って、輝(かがや)く日(ひ)の宮と一方を申していた。
源氏の君の美しい童形をいつまでも変えたくないように帝は思召したのであったが、いよいよ十二の歳に元服をおさせになることになった。その式の準備もなにも帝ご自身でお指図(さしず)になった。前に東宮のご元服の式を紫宸(ししん)殿であげられたときの派手(はで)やかさに落さず、その日、官人たちが各階級別々にさずかる響宴(きょうえん)の仕度を内蔵寮(くらりょう)、穀倉院(こくそういん)などでするのは、つまり公式の仕度で、それではじゅうぶんでないと思召して、特に仰せがあって、それらも華麗をきわめたものにされた。

 清涼殿は東面しているが、お庭の前のお座敷に玉座の椅子(いす)がすえられ、元服される皇子の席、加冠役(かかんやく)の大臣の席がそのお前にできていた。午後四時に源氏の君が参った。上で二つに分けて耳のところで輪にした童形の礼髪(れいはつ)を結(ゆ)った源氏の顔つき、少年の美、これを永久に保存しておくことが不可能なのであろうかと惜しまれた。理髪の役は大蔵卿(おおくらきょう)である、美しい髪を短く切るのを惜しく思うふうであった。帝は御息所(みやすどころ)がこの式を見たならばと、昔をお思い出しになることによって堪えがたくなる悲しみをおさえておいでになった。加冠が終って、いったん休息所(きゅうそくじょ)にさがり、そこで源氏は服をかえて庭上の拝をした。参列の諸員はみな小さい大宮人の美に感激の涙をこぼしていた。帝はましてご自制されがたいご感情があった。藤壺の宮をお得になって以来、まぎれておいでになることもあった昔の哀愁が今一度にお胸へ帰ってきたのである。まだ小さくて、おとなの頭の形になることは、その人の美を損じさせはしないかというご懸念(けねん)もおありになったのであるが、源氏の君には今驚かれるほどの新彩が加わって見えた。加冠の大臣には夫人の内親王とのあいだに生れた令嬢があった。東宮から後宮にとお望みになったのをお受けせずに、お返辞を躊躇(ちゅうちょ)していたのは、初めから源氏の君の配偶者に擬(ぎ)していたからである。大臣は帝のご意向をもうかがった。
「それでは元服したのちの彼を世話する人も要(い)ることであるから、その人をいっしょにさせればよい」
という仰せがあったから、大臣はその実現を期していた。
今日の侍所(さむらいどころ)になっている座敷で開かれた酒宴に、親王方の次の席へ源氏はついた。娘の件を大臣がほのめかしても、きわめて若い源氏はなんとも返辞することができないのであった。帝のお居間の方から仰せによって内侍が大臣を呼びに来たので、大臣はすぐに御前へ行った。加冠役としての下賜品はおそばの命婦がとりついだ。白い大袿(おおうちぎ)に帝のお召料のお服が一襲(ひとかさね)で、これは昔から定まった品である。酒杯をたまわるときに、次の歌を仰せられた。
  いときなき初元結ひに長き世を
    契(ちぎ)る心は結びこめつや
 大臣の女(むすめ)との結婚にまでおいいおよぼしになった御製(ぎょせい)は大臣を驚かした。
  結びつる心も深き元結ひに
    濃き紫の色しあせずば
と返歌を奏上してから大臣は、清涼殿の正面の階段をさがって拝礼をした。左馬寮(さまりょう)のお馬と蔵人所(くろうどどころ)の鷹(たか)をその時にたまわった。そのあとで諸員が階前に出て、官等にしたがってそれぞれの下賜品を得た。この日のご響宴の席の折詰のお料理、籠(かご)詰めの菓子などは、みな右大弁がご命令によって作ったものであった。一般の官吏にたもう弁当の数、一般に下賜される絹を入れた箱の多かったことは、東宮のご元服のとき以上であった。

 その夜、源氏の君は左大臣家へ婿(むこ)になって行った。この儀式にも善美は尽されたのである。高貴な美少年の婿を大臣はかわいく思った。姫君の方がすこし年上であったから、年下の少年に配されたことを、不似合いにはずかしいことに思っていた。この大臣は大きい勢力をもったうえに、姫君の母の夫人は帝の同胞(どうほう)であったから、あくまでもはなやかな家であるところへ、今度また帝のご愛子の源氏を婿に迎えたのであるから、東宮の外祖父で未来の関白と思われている右大臣の勢力は比較にならぬほど気押(けお)されていた。左大臣は何人かの妻妾から生れた子どもを幾人ももっていた。内親王腹のは今蔵人少将であって年少の美しい貴公子であるのを、左右大臣の仲はよくないのであるが、その蔵人少将をよその者に見ていることができず、だいじにしている四女の婿にした。これも左大臣が源氏の君をたいせつがるのに劣らず、右大臣からだいじな婿君としてかしずかれていたのはよい一対(いっつい)の麗(うる)わしいことであった。
源氏の君は帝がおそばを離しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった。源氏の心には藤壺の宮の美が最上のものに思われて、あのような人を自分も妻にしたい、宮のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢はだいじにされて育った美しい貴族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壺の宮のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。元服後の源氏は、もう藤壺の御殿の御簾(みす)の中へは入れていただけなかった。琴や笛の音の中に、その方がおひきになるものの声を求めるとか、今はもう物越しにより聞かれないほのかなお声を聞くとかが、せめてもの慰めになって、宮中の宿直(とのい)ばかりが好きだった。五六日御所にいて、二三日大臣家へ行くなど絶え絶えの通い方を、まだ少年期であるからと見て大臣はとがめようとも思わず、相も変らず婿君のかしずき騒ぎをしていた。新夫婦づきの女房は、ことにすぐれた者をもってしたり、気に入りそうな遊びを催したり、一所懸命である。御所では母の更衣のもとの桐壺を源氏の宿直所(とのいどころ)にお与えになって、御息所(みやすどころ)に侍していた女房をそのまま使わせておいでになった。更衣の家の方は修理の役所、内匠寮(たくみりょう)などへ帝がお命じになって、ひじょうにりっぱなものに改築されたのである。もとから築山(つきやま)のあるよい庭のついた家であったが、池なども今度はずっと広くされた。二条の院はこれである。源氏はこんな気に入った家に自分の理想どおりの妻と暮すことができたらと思って、しじゅう嘆息をしていた。
 光の君という名は、前に鴻臚館(こうろかん)へ来た高麗(こうらい)人が、源氏の美貌と天才をほめてつけた名だと、そのころいわれたそうである。

中译
第一回 桐壶

话说从前某一朝天皇时代,后宫妃嫔甚多,其中有一更衣①,出身并不十分高贵,却蒙皇上特别宠爱。有几个出身高贵的妃子,一进宫就自命不凡,以为恩宠一定在我:如今看见这更衣走了红运、便诽谤她,妒忌她。和她同等地位的、或者出身比她低微的更衣,自如无法竞争,更是怨恨满腹。这更衣朝朝夜夜侍候皇上,别的妃子看了妒火中烧。大约是众怨积集所致吧,这更衣生起病来,心情郁结,常回娘家休养。皇上越发舍不得她,越发怜爱她,竟不顾众口非难,一味徇情,此等专宠,必将成为后世话柄。连朝中高官贵族,也都不以为然,大家侧目而视,相与议论道:“这等专宠,真正教人吃惊!唐朝就为了有此等事,弄得天下大乱。”这消息渐渐传遍全国,民间怨声载道,认为此乃十分可忧之事,将来难免闯出杨贵妃那样的滔天大祸来呢。更衣处此境遇,痛苦不堪,全赖主上深恩加被,战战兢兢地在宫中度日。

  这更衣的父亲官居大纳言②之位,早已去世。母夫人也是名门贵族出身,看见人家女儿双亲俱全,尊荣富厚,就巴望自己女儿不落人后,每逢参与庆吊等仪式,总是尽心竭力,百般调度,在人前装体面。只可惜缺乏有力的保护者,万一发生意外,势必孤立无援,心中不免凄凉。

  ①妃嫔中地位最高的是女御,其次为更衣,皆侍寝。又次为尚侍(亦可侍寝)、典侍、掌侍、命妇等女官。尚侍为内侍司(后宫十二司之一)的长官,典侍为次官,掌侍为三等官,命妇又次之。

  ②当时的中央官厅称为太政官。左大臣为太政官之长官,右大臣次之。太政大臣在左右大臣之上,为朝廷最高官。左右大臣之下有大纳言、中纳言、宰相(即参议)。太政官下设少纳言局、左弁官局、右弁官局。少纳言局的官员有少纳言三人,外记次之,外记有左右大少各一人。弁官有左右大中少弁各一人。左弁官局统辖中务、式部、治部、民部四省,右弁官局统辖兵部、刑部、大藏、宫内四省。统称八省。省下面是各职和各寮,均属省管。省的长官称卿,次官称大辅、少辅,三等官称大丞、少丞。职的长官称大夫,次官称亮,三等官称大进、少进。守的长官称头,次官称助,三等官称大允、少允。

  敢是宿世因缘吧,这更衣生下了一个容华如玉、盖世无双的皇子。皇上急欲看看这婴儿,赶快教人抱进宫来①。一看,果然是一个异常清秀可爱的小皇子。

  ①按那时制度,做月子照例是在娘家的。

  大皇子是右大臣之女弘徽殿女御所生,有高贵的外戚作后盾,毫无疑议,当然是人人爱戴的东宫太子。然而讲到相貌,总比不上这小皇子的清秀俊美。因此皇上对于大皇子,只是一般的珍爱,而把这小皇子看作自己私人的秘宝,加以无限宠爱。
小皇子的母亲是更衣,按照身分,本来不须象普通低级女宫这样侍候皇上日常生活。她的地位并不寻常,品格也很高贵。然而皇上对她过分宠爱,不讲情理,只管要她住在身边,几乎片刻不离。结果每逢开宴作乐,以及其他盛会佳节,总是首先宣召这更衣。有时皇上起身很迟,这一天就把这更衣留在身边,不放她回自己宫室去。如此日夜侍候,照更衣身分而言,似乎反而太轻率了。自小皇子诞生之后,皇上对此更衣尤其重视,使得大皇子的母亲弘徽殿女御心怀疑忌。她想:这小皇子可能立为太子呢。

  弘徽殿女御入宫最早,皇上重视她,决非寻常妃子可比。况且她已经生男育女。因此独有这妃子的疑忌,使皇上感到烦闷,于心不安。

  更衣身受皇上深恩重爱,然而贬斥她、诽谤她的人亦复不少。她身体羸弱,又没有外戚后援,因此皇上越是宠爱,她心中越是忧惧。她住的宫院叫桐壶。由此赴皇上常住的清凉殿,必须经过许多妃嫔的宫室。她不断地来来往往,别的妃嫔看在眼里怪不舒服,也是理所当然。有时这桐壶更衣来往得过分频繁了,她们就恶意地作弄她,在板桥①上或过廊里放些龌龊东西,让迎送桐壶更衣的宫女们的衣裾弄得肮胜不堪。有时她们又彼此约通,把桐壶更衣所必须经过的走廊两头锁闭,给她麻烦,使她困窘。诸如此类,层出不穷,使得桐壶更衣痛苦万状。皇上看到此种情况,更加怜惜她,就教清凉殿后面后凉殿里的一个更衣迁到别处去,腾出房间来给桐壶更衣作值宿时的休息室。那个迁出外面去的更衣,更是怀恨无穷。
小皇子三岁那一年,举行穿裙仪式②,排场不亚于大皇子当年。内藏寮③和纳殿④的物资尽行提取出来,仪式非常隆重。这也引起了世人种种非难。及至见到这小皇子容貌漂亮,仪态优美,竟是个盖世无双的玉人儿,谁也不忍妒忌他。见多识广的人见了他都吃惊,对他瞠目注视,叹道:“这神仙似的人也会降临到尘世间来!”

  ①板桥是从一幢房子通到另一位房子之间的桥。

  ②旧时日本装,男于是穿裙的,现在仅用于礼服.穿裙仪式为男童初次穿裙时举行的仪式,古时在三岁,后来也有在五岁或六岁时举行的。女子亦举行此种仪式。

  ③内藏寮是管理金银珠宝、绫罗绸缎以及服装等物的机构,属中务省。

  ④纳殿为收藏历代御物之所。

  这一年夏天,小皇子的母亲桐壶更衣觉得身体不好,想乞假回娘家休养,可是皇上总不准许。这位更衣近几年来常常生病,皇上已经见惯,他说:“不妨暂且住在这里养养,看情形再说吧。”但在这期间,更衣的病日重一日,只过得五六天,身体已经衰弱得厉害了。更衣的母亲太君啼啼哭哭向皇上乞假,这才准许她出宫。即使在这等时候,也得提防发生意外、吃惊受辱。因此决计让小皇子留在宫中,更衣独自悄俏退出。形势所迫,皇上也不便一味挽留,只因身分关系,不能亲送出宫,心中便有难言之痛。更衣本来是个花容月貌的美人儿,但这时候已经芳容消减,心中百感交集,却无力申述,看看只剩得奄奄一息了。皇上睹此情状,茫然失措,一面啼哭,一面历叙前情,重申盟誓。可是更衣已经不能答话,两眼失神,四肢瘫痪,只是昏昏沉沉地躺着。皇上狼狈之极,束手无策,只得匆匆出室,命左右准备辇车,但终觉舍不得她,再走进更衣室中来,又不准许她出宫了。他对更衣说:“我和你立下盟誓:大限到时,也得双双同行。想来你不会舍我而去吧!”那女的也深感隆情,断断续续地吟道:

  “面临大限悲长别,

  留恋残生叹命穷。
早知今日……”说到这里已经气息奄奄,想继续说下去,只觉困疲不堪,痛苦难当了。皇上意欲将她留住在此,守视病状。可是左右奏道:“那边祈祷今日开始,高僧都已请到,定于今晚启忏……”他们催促皇上动身。皇上无可奈何,只得准许更衣出宫回娘家去。

  桐壶更衣出宫之后,皇上满怀悲恸,不能就睡,但觉长夜如年,忧心如捣。派住问病的使者迟迟不返,皇上不断地唉声叹气。使者到达外家,只听见里面号啕大哭,家人哭诉道:“夜半过后就去世了!”使者垂头丧气而归,据实奏闻。皇上一闻此言,心如刀割,神智恍惚,只是笼闭一室,枯坐凝思。

  小皇子已遭母丧,皇上颇思留他在身边。可是丧服中的皇子留侍御前,古无前例,只得准许他出居外家。小皇子年幼无知,看见众宫女啼啼哭哭、父皇流泪不绝,童心中只觉得奇怪。寻常父母子女别离,已是悲哀之事,何况死别又加生离呢!

  悲伤也要有个限度,终于只得按照丧礼,举行火葬。太君恋恋不舍,哭泣哀号:“让我跟女儿一同化作灰尘吧!”她挤上前去,乘了送葬的众侍女的车子,一同来到爱宕的火葬场,那里正在举行庄严的仪式呢。太君到达其地,心情何等悲伤!她说得还算通情达理:“眼看着遗骸,总当她还是活着的,不肯相信她死了;直到看见她变成了灰烬,方才确信她不是这世间的人了。”然而哭得几乎从车子上掉下来。众侍女忙来扶持,百般劝解,她们说:“早就担心会弄到这地步的。”
宫中派钦差来了。宣读圣旨:追赠三位①。这宣读又引起了新的悲哀。皇上回想这更衣在世时终于不曾升为女御,觉得异常抱歉。他现在要让她晋升一级,所以追封。这追封又引起许多人的怨恨与妒忌。然而知情达理的人,都认为这桐壶更衣容貌风采,优雅可爱,态度性情,和蔼可亲,的确无可指责。只因过去皇上对她宠爱太甚,以致受人妒恨。如今她已不幸身死,皇上身边的女官们回想她人品之优越、心地之慈祥,大家不胜悼惜。“生前诚可恨,死后皆可爱。”此古歌想必是为此种情境而发的了。

  ①位是日本朝廷诸臣爵位高低的标志,从一位到八位(最低位)共三十级,各有正、从之分,四位以下又有上、下之分。女御的爵位是三位,更衣是四位。追赠三位,即追封为女御。

  光阴荏苒,桐壶更衣死后,每次举行法事,皇上必派人吊唁,抚慰优厚。虽然事过境迁,但皇上悲情不减,无法排遣。他绝不宣召别的妃子侍寝,只是朝朝暮暮以泪洗面。皇上身边的人见此情景,也都忧愁叹息,泣对秋光。只有弘徽殿女御等人,至今还不肯容赦桐壶更衣,说道:“做了鬼还教人不得安宁,这等宠爱真不得了啊!”皇上虽然有大皇子侍侧,可是心中老是记惦着小皇子,不时派遣亲信的女官及乳母等到外家探问小皇子情况。

  深秋有一天黄昏,朔风乍起,顿感寒气侵肤。皇上追思往事,倍觉伤心,便派韧负①命妇②赴外家存问。命妇于月色当空之夜登车前往。皇上则徘徊望月,缅怀前尘:往日每逢花晨月夕,必有丝竹管弦之兴。那时这更衣有时弹琴,清脆之音,沁人肺腑;有时吟诗,婉转悠扬,迥非凡响。她的声音笑貌,现在成了幻影,时时依稀仿佛地出现在眼前。然而幻影即使浓重,也抵不过一瞬间的现实呀!

  韧负命妇到达外家,车子一进门内,但见景象异常萧条。这宅子原是寡妇居处,以前为了辅育这珍爱的女儿,曾经略加装修,维持一定的体面。可是现在这寡妇天天为亡女悲伤饮位,无心治理,因此庭草荒芜,花木凋零。加之此时寒风萧瑟,更显得冷落凄凉。只有一轮秋月,繁茂的杂草也遮它不住,还是明朗地照着。

  ①京中武官有左右近卫、左右卫门、左右兵卫,共称六卫府。近卫府负责警卫皇宫之门内,左右近卫府的长官称大将,次官称中将、少将,三等官称将监。四等官称将曹。左右近卫大将、中将等,略称左近大将、右近中将、右大将、左中将等。中将、少将亦称佐、助等。卫门府负责警卫皇宫之门外,左右卫门府的长官称督,次官称佐、权佐,三等官称大尉、少尉。卫门府又特称韧负司,其佐、尉称韧负佐、韧负尉。兵卫府负责警卫皇宫之门外,并巡检京中。其官名与卫门府同。

  ②当时宫中较下级之女官或贵族家的侍女,均以其父或其夫之官名来称呼。

  ③当时贵族的宫殿式住宅中的正屋亦称正殿。

  命妇在正殿③南面下车。太君接见,一时悲从中来,哽咽不能言语,好容易启口:“妾身苟延残喘,真乃薄命之人。猥蒙圣眷,有劳冒霜犯露,驾临蓬门,教人不胜愧感!”说罢,泪下如雨。命妇答道:“前日典侍来此,回宫复奏,言此间光景,伤心惨目,教人肝肠断绝。我乃冥顽无知之人,今日睹此情状,亦觉不胜悲戚!”她踌躇片刻,传达圣旨:“万岁爷说:‘当时我只道是做梦,一直神魂颠倒。后来逐渐安静下来,然而无法教梦清醒,真乃痛苦不堪。何以解忧,无人可问。拟请太君悄悄来此一行,不知可否?我又挂念小皇子,教他在悲叹哭泣之中度日,亦甚可怜。务请早日带他一同来此。’万岁爷说这番话时,断断续续,饮泪吞声;又深恐旁人笑他怯弱,不敢高声。这神情教人看了实在难当。因此我不待他说完,便退出来了。”说罢,即将皇上手书呈上,太君说:“流泪过多,两眼昏花,今蒙宠赐宸函,眼前顿增光辉。”便展书拜读:
“迩来但望日月推迁,悲伤渐减,岂知历时越久,悲伤越增。此真无可奈何之事!幼儿近来如何?时在念中。不得与太君共同抚养,实为憾事。今请视此子为亡人之遗念,偕同入宫。”

此外还写着种种详情。函未并附诗一首:

  “冷露凄风夜,深宫泪满襟。

  遥怜荒诸上,小草太孤零。”

太君未及读完,已经泣不成声了。后来答道:“妾身老而不死,命该受苦。如今面对松树①,尚且羞愧;何况九重宫阙,岂敢仰望?屡蒙圣恩宣慰,不胜铭感。但妾自身,不便冒昧入宫。惟窃有所感:小皇子年齿尚幼,不知缘何如此颖悟,近日时刻想念父皇,急欲入宫。此实人间至情,深可嘉悯。——此事亦望代为启奏。妾身薄命,此间乃不吉之地,不宜屈留小皇子久居也……”

  ①松树常用作长寿的象征,故如此说。

  此时小皇子已睡。命妇禀道:“本当拜见小皇子,将详情复奏。但万岁爷专候回音,不便迟归。”急欲告辞。太君道:“近来悼念亡女,心情郁结,苦不堪言;颇思对知己之人罄谈衷曲,俾得略展愁怀,公余之暇,务请常常惠临,不胜盼感。回思年来每次相见,都只为欢庆之事。此次为传递此可悲之书柬而相见,实非所望。都缘妾身命薄,故遭此苦厄也。亡女初诞生时,愚夫妇即寄与厚望,但愿此女为门户增光。亡夫大纳言弥留之际,犹反复叮嘱道:‘此女入宫之愿望,务必实现,切勿因我死而丧失锐气。’我也想到:家无有力之后援人,入宫后势必遭受种种不幸。只因不忍违反遗嘱,故尔令其入宫。岂料入侍之后,荷蒙主上过分宠幸,百般怜惜,无微不至。亡女也不敢不忍受他人种种不近人情之侮辱,而周旋于群妃之间。不料朋辈妒恨之心,日积月累,痛心之事,难于尽述。忧能伤人,终于惨遭夭死。昔日之深恩重爱,反成了怨恨之由。——唉,这原不过是我这伤心寡母的胡言乱道而已。”太君话未说完,一阵心酸,泣不成声。此时已到深夜了。

  命妇答道:“并非胡言乱道,万岁爷也如此想。他说:‘我确是真心爱她,但也何必如此过分,以致惊人耳目?这就注定恩爱不能久长了。现在回想,我和她的盟誓,原来是一段恶因缘!我自信一向未曾作过招人怨恨之事。只为了此人,无端地招来了许多怨恨,结果又被抛撇得形单影只,只落得自慰乏术,人怨交加,变成了愚夫笨伯。这也是前世冤孽吧。’他反复申述,泪眼始终不干。”她这番话絮絮叨叨,难于尽述。

  后来命妇又含泪禀告道:“夜已很深了。今夜之内必须回宫复奏。”便急忙准备动身,其时凉月西沉,夜天如水;寒风掠面,顿感凄凉;草虫乱鸣,催人堕泪。命妇对此情景,留恋不忍遽去,遂吟诗道:

  “纵然伴着秋虫泣,

  哭尽长宵泪未干。”

吟毕,还是无意登车。太君答诗,命侍女传告:

  “哭声多似虫鸣处,

  添得宫人泪万行。”

此怨恨之词,亦请代为奏闻。”此次犒赏命妇,不宜用富有风趣之礼物,太君便将已故更衣的遗物衣衫一套、梳具数事,赠与命妇,藉留纪念。这些东西仿佛是专为此用而遗留着的。

  随伴小皇子来此的众年轻侍女,人人悲伤,自不必说。她们在宫中看惯繁华景象,觉得此间异常凄凉。她们设想皇上悲痛之状,甚是同情,便劝告太君,请早日送小皇子入宫。太君认为自己乃不洁之身,倘随伴小皇子入宫,外间定多非议。而若不见此小皇子,即使暂时之间,也觉心头不安。因此小皇子入宫之事,一时未能断然实行。

  命妇回宫,见皇上犹未就寝,觉得十分可怜。此时清凉殿庭院中秋花秋草,正值繁茂。皇上装作观赏模样,带着四五个性情温雅的女官,静悄悄地闲谈消遣。近来皇上晨夕披览的,是《长恨歌》画册。这是从前宇多天皇命画家绘制的,其中有著名诗人伊势①和贯之②所作的和歌③及汉诗。日常谈话,也都是此类话题。

  ①伊势姓藤原,是十世纪中有名女歌人,乃三十六歌仙之一,著有《伊势集》。

  ②贯之姓纪,亦十世纪中名歌人,曾与纪友则、凡河内躬恒、壬生忠岑编撰《古今和歌集》。

  ③和歌即日本诗歌。

此时看见命妇回宫,便细问桐壶更衣娘家情状。命妇即将所见悲惨景象悄悄奏闻。皇上展读太君复书,但见其中写道:“辱承锦注,诚惶诚恐,几无置身之地。拜读温谕,悲感交集,心迷目眩矣。

  嘉荫凋残风力猛,

  剧怜小草不胜悲。”
此诗有失言之处①,想是悲哀之极,方寸缭乱所致,皇上并不见罪。皇上不欲令人看到伤心之色,努力隐忍,然而终于隐忍不了。他历历回想初见更衣时的千种风流、万般恩爱。那时节一刻也舍不得分离。如今形单影只,孤苦伶仃,自己也觉得怪可怜的。他说:“太君不欲违背故大纳言遗嘱,故尔遣女入宫,我为答谢这番美意,理应加以优遇,却终未实行。如今人琴具杳,言之无益矣!”他觉得异常抱歉。接着又说,“虽然如此,更衣已经生下小皇子,等他长大成人,老太君定有享福之日。但愿她健康长寿。”

  命妇便将太君所赐礼物呈请御览。皇上看了,想道:“这倘若是临邛道士探得了亡人居处而带回来的证物钿合金钗……”②但作此空想,也是枉然。便吟诗道:

   “愿君化作鸿都客,

   探得香魂住处来。”

  ①嘉荫比喻已故更衣,小草比喻小皇子。意思是:遮风的树木已经枯死,树下的小草失却了保护者。这里蔑视了小皇子的父亲皇上,故曰失言。

  ②参看白居易《长恨歌》。

  皇上看了《长恨歌》画册,觉得画中杨贵妃的容貌,虽然出于名画家之手,但笔力有限,到底缺乏生趣。诗中说贵妃的面庞和眉毛似“太液芙蓉未央柳”①,固然比得确当,唐朝的装束也固然端丽优雅,但是,一回想桐壶更衣的妩媚温柔之姿,便觉得任何花鸟的颜色与声音都比不上了。以前晨夕相处,惯说“在天愿作比翼鸟,在地愿为连理枝”之句②,共交盟誓。如今都变成了空花泡影。天命如此,抱恨无穷!此时皇上听到风啸虫鸣,觉得无不催人哀思。而弘徽殿女御久不参谒帝居,偏偏在这深夜时分玩赏月色,奏起丝竹管弦来。皇上听了,大为不快,觉得刺耳难闻。目睹皇上近日悲戚之状的殿上人③和女官们,听到这奏乐之声,也都从旁代抱不平。这弘徽殿女御原是个非常顽强冷酷之人,全不把皇上之事放在心上,所以故作此举。月色西沉了。皇上即景口占:

  “欲望宫墙月,啼多泪眼昏。

  遥怜荒邸里,哪得见光明!”

他想念桐壶更衣娘家情状,挑尽残灯,终夜枯坐凝思,懒去睡眠。听见巡夜的右近卫官唱名④,知道此刻已经是丑时了。因恐枯坐过久,惹人注目,便起身进内就寝,却难于入寐。翌日晨起。回想从前“珠帘锦帐不觉晓”⑤之情景,不胜悲戚,就懒得处理朝政了。皇上饮食不进:早膳勉强举箸,应名而已;正式御餐,久已废止了。凡侍候御膳的人,看到这光景,无不忧愁叹息。所有近身侍臣,不论男女,都很焦急,叹道:“这真是毫无办法了!”他们私下议论:“皇上和这桐壶更衣,定有前世宿缘。更衣在世之时,万人讥诮怨恨,皇上一概置之不顾。凡有关这更衣之事,一味徇情,不讲道理。如今更衣已死,又是日日愁叹,不理朝政。这真是太荒唐了!”他们又引证出唐玄宗等外国朝廷的例子来,低声议论,悄悄地叹息。

  ①②参看白居易《长恨歌》。

  ③殿上人是被允许上殿的贵族。

  ④宫中巡夜,亥时(十点钟)起由左近卫官值班,丑时(两点钟)起由右近卫官值班。值班各自唱名。

  ⑤见《伊势集·诵亭子院长恨歌屏风》。下句是“长恨绵绵谁梦知”。
过了若干时日,小皇子回宫了。这孩子长得越发秀美,竟不象是尘世间的人,因此父皇十分钟爱。次年春天,该是立太子的时候了,皇上心中颇思立这小皇子为太子。然而这小皇子没有高贵的外戚作后援;而废长立幼,又是世人所不能赞许之事,深恐反而不利于小皇子。因此终于打消了这念头,不露声色,竟立了大皇子为太子。于是世人都说:“如此钟爱的小皇子,终于不立为太子,世事毕竟是有分寸的啊!”大皇子的母亲弘徽殿女御也放了心。

  小皇子的外祖母自从女儿死后,一直悲伤,无以自慰。她向佛祈愿,希望早日往生女儿所在的国土。不久果蒙佛力加被,接引她归西天去了。皇上为此又感到无限悲伤。此时小皇子年方六岁,已经懂得人情,悼惜外祖母之死,哭泣尽哀。外祖母多年来和这外孙很亲密,舍不得和他诀别,弥留之际,反复提及,不胜悲戚。此后小皇子便常住在宫中了。

  小皇子七岁上开始读书,聪明颖悟,绝世无双。皇上看见他过分灵敏,反而觉得担心。他说:“现在谁也不会怨恨他了吧。他没有母亲,仅为这一点,大家也应该疼爱他。”皇上驾临弘徽殿的时候,常常带他同去,并且让他走进帘内。这小皇子长得异常可爱,即使赳赳武夫或仇人,一看见他的姿态,也不得不面露笑容。因此弘徽殿女御也不欲摒弃他了。这弘徽殿女御除了大皇子以外,又生有两位皇女,但相貌都比不上小皇子的秀美。别的女御和更衣见了小皇子,也都不避嫌疑。所有的人都想:这小小年纪就有那么风韵娴雅、妩媚含羞的姿态,真是个非常可亲而又必须谨慎对待的游戏伴侣。规定学习的种种学问,自不必说,就是琴和笛,也都精通,清音响彻云霄。这小皇子的多才多艺如果一一列举起来,简直如同说谎,教人不能相信。

  这时候朝鲜派使臣来朝觐了,其中有一个高明的相士。皇上闻此消息,想召见这相士,教他替小皇子看相。但宇多天皇定下禁例:外国人不得入宫。他只得悄悄地派小皇子到招待外宾的鸿胪馆去访问这相士。一个官居右大弁的朝臣是小皇子的保护人,皇上教小皇子扮作这右大弁的儿子,一同前往。相士看了小皇子的相貌,大为吃惊,几度侧首仔细端相,不胜诧异。后来说道:“照这位公子的相貌看来,应该当一国之王,登至尊之位。然而若果如此,深恐国家发生变乱,己身遭逢忧患。若是当朝廷柱石,辅佐天下政治呢,则又与相貌不合,”这右大弁原是个富有才艺的博士,和这相士高谈阔论,颇感兴昧。两人吟诗作文,互相赠答。相士即日就要告辞返国。他此次得见如此相貌不凡之人物,深感欣幸;如今即将离别,反觉不胜悲伤。他作了许多咏他此种心情的优美的诗文,赠与小皇子。小皇子也吟成非常可爱之诗篇,作为报答。相士读了小皇子的诗,大加赞赏,奉赠种种珍贵礼品。朝廷也重重赏赐这相士。此事虽然秘而不宣,但世人早已传闻。太子的外祖父右大臣等闻知此事,深恐皇上有改立太子之心,顿生疑忌。

  皇上心地十分贤明。他相信日本相术,看到这小皇子的相貌,早就胸有成竹,所以一直不曾封他为亲王。现在他见这朝鲜相士之言和他自己见解相吻合,觉得此人实甚高明,便下决心:“我一定不让他做个没有外戚作后援的无品亲王①,免得他坎坷终身。我在位几年,也是说不定的。我还不如让他做个臣下,教他辅佐朝廷。为他将来打算,这也是得策的。”从此就教他研究有关此道的种种学问。小皇子研究学问之后,才华更加焕发了。教这人屈居臣下之位,实甚可惜。然而如果封他为亲王,必然招致世人疑忌,反而不利。再教精通命理的人推算一下,见解相同。于是皇上就将这小皇子降为臣籍,赐姓源氏。

  岁月如流,但皇上思念己故桐壶更衣,无时或已。有时为消愁解闷,也召见一些闻名的美人。然而都不中意,觉得象桐壶更衣那样的人,世间真不易再得。他就从此疏远女人,一概无心顾问了。一天,有一个侍侯皇上的典侍,说起先帝②的第四皇女,容貌姣好,声望高贵;母后钟爱之深,世无其例。这典侍曾经侍候先帝,对母后也很亲近,时常出入宫邸,眼见这四公主长大成人;现在也常隐约窥见容姿。这典侍奏道:“妾身入宫侍奉,已历三代,终未见与桐壶娘娘相似之人。惟有此四公主成长以来,酷肖桐壶娘娘,真乃倾国倾城之貌也。”皇上闻言,想道:“莫非真有其人?”未免留情,便卑辞厚礼,劝请四公主入宫。

  ①亲王的等级是一品到四品,四品以下叫做无品亲王。童年封亲王,规定是无品亲王,地位甚低。

  ②此先帝与皇上的关系不明。或说是皇上的堂兄弟或伯叔父,则此四公主是皇上的侄女或堂姐妹。

  母后想道:“哎呀,这真可怕了!弘徽殿女御心肠太狠,桐壶更衣分明是被她折磨死的。前车可鉴,真正教人寒心!”她左思右想,犹豫不决,此事终于不曾顺利进行。不料这期间母后患病身死,四公主成了孤苦伶仃之身。皇上诚恳地遣人存问,对她家人说:“教她入宫,我把她当作子女看待吧。”四公主的侍女们、保护人和其兄兵部卿亲王都想道:“与其在此孤苦度日,不如让她入宫,心情也可以宽慰一些。”便送四公主入宫。她住在藤壶院,故称为藤壶女御。

  皇上召见藤壶女御,觉得此人容貌风采,异常肖似已故桐壶更衣。而且身分高贵,为世人所敬仰,别的妃嫔对她无可贬斥。因此藤壶女御入宫之后,一切如意称心。已故桐壶更衣出身低微,受人轻视,而恩宠偏偏异常深重。现在皇上对她的恋慕虽然并不消减,但爱情自然移注在藤壶女御身上,觉得心情十分欢慰。这也是人世常态,深可感慨也。

  源氏公子时刻不离皇上左右,因此日常侍奉皇上的妃嫔们对他都不规避。妃嫔们个个自认为美貌不让他人,实际上也的确妩媚窈窕,各得其妙。然而她们都年事较长,态度老成;只有这位藤壶女御年龄最幼,相貌又最美,见了源氏公子往往含羞躲避。但公子朝夕出入宫闱,自然常常窥见姿色。母亲桐壶更衣去世时,公子年方三岁,当然连面影也记不得了。然而听那典侍说,这位藤壶女御相貌酷似母亲,这幼年公子便深深恋慕,因此常常亲近这位继母。皇上对此二人无限宠爱,常常对藤壶女御说:“你不要疏远这孩子。你和他母亲异常肖似。他亲近你,你不要认为无礼,多多地怜爱他吧。他母亲的声音笑貌,和你非常相象,他自然也和你非常相象。你们两人作为母子,并无不相称之处。”源氏公子听了这话,童心深感喜悦,每逢春花秋月、良辰美景,常常亲近藤壶女御,对她表示恋慕之情。弘徽殿女御和藤壶女御也合不来,因此又勾起她对源氏公子的旧恨,对他看不顺眼了。

  皇上常谓藤壶女御名重天下,把她看作盖世无双的美人。但源氏公子的相貌,比她更加光彩焕发,艳丽动人,因此世人称他为“光华公子”(光君)。藤壶女御和源氏公子并受皇上宠爱,因此世人称她为“昭阳妃子”。

  源氏公子作童子装束,娇艳可爱,改装是可惜的。但到了十二岁上,照例须举行冠礼①,改作成人装束。为了举办这仪式,皇上日夜操心,躬亲指挥。在例行制度之外,又添加种种排场,规模十分盛大。当年皇太子的冠礼,在紫宸殿②举行,非常隆重;此次源氏公子的冠礼,务求不亚于那一次。各处的飨宴,向来由内藏寮及谷仓院③当作公事办理。但皇上深恐他们办得不周到,因此颁布特旨,责令办得尽善尽美。在皇上所常居的清凉殿的东厢里,朝东设置皇上的玉座,玉座前面设置冠者源氏及加冠大臣的坐位。

  源氏公子于申时上殿。他的童发梳成‘总角’,左右分开,在耳旁挽成双髻,娇艳可爱。现在要他改作成人装束,甚是可惜!剪发之事,由大藏卿执行。将此青丝美发剪短,实在不忍下手。此时皇上又记念起他母亲桐壶更衣来。他想:如果更衣见此光景,不知作何感想。一阵心酸,几乎堕泪,好容易隐忍下去。

  源氏公子加冠之后,赴休息室,换了成人装束,再上殿来,向皇上拜舞。观者睹此情景,无不赞叹流泪。皇上看了,感动更深,难于禁受。昔日的悲哀,近来有时得以忘怀,而今重又涌上心头。此次加冠,他很担心,生怕源氏公子天真烂漫之风姿由于改装而减色。岂知改装之后,越发俊美可爱了。

  ①当时男童十一岁至十六岁时,为表示转变为成年人,举行改装、结发、加冠的仪式。称为冠礼。

  ②紫宸殿为当时皇宫的正殿,又称南殿。

  ③谷仓院是保管京畿诸国的纳贡品和无主官田、没收官田等收获物的官库。

  ④本书原文中人物大都无专名词,后人为便于阅读起见,根据各回题名或诗文内容给某些人物取名。葵姬即其一例。

  加冠由左大臣执行。这左大臣的夫人是皇女,所生女儿只有一人,称为葵姬④。皇太子爱慕此葵姬,意欲聘娶,左大臣迁延未许,只因早已有心将此女嫁与源氏公子。他曾将此意奏闻。皇上想道:“这孩子加冠之后,本来缺少外戚后援人。他既有此心,我就此玉成其事,教她侍寝①吧。”曾催促左大臣早作准备。左大臣正好也盼望早成。

  礼毕,众人退出,赴侍所②,大开琼筵。源氏公子在诸亲王末座就席。左大臣在席上隐约提及葵姬之事。公子年事尚幼,腼腆含羞,默默不答。不久内侍宣旨,召左大臣参见。左大臣入内见驾。御前诸命妇便将加冠犒赏品赐与左大臣:照例是白色大褂一件、衣衫一套。又赐酒一杯。其时皇上吟道:

   “童发今承亲手束,

   合欢双带绾成无?”

诗中暗示结缡之意,左大臣不胜惊喜,立即奉和:

   “朱丝已绾同心结,

   但愿深红永不消。”

他就步下长阶,走到庭中,拜舞答谢。皇上又命赏赐左大臣左马寮③御马一匹、藏人所④鹰一头。其他公卿王侯,也都罗列阶前,各依身分拜领赏赐。这一天冠者呈献的肴馔点心,有的装匣,有的装筐,概由右大弁受命调制。此外赐与众人的屯食⑤,以及犒赏诸官员的装在古式柜子里的礼品,陈列满前,途几为塞,比皇太子加冠时更为丰富。这仪式真是盛大之极。

  ①宫中惯例,皇太子、太子加冠之夜人由公卿之女侍寝,行婚礼。

  ②帝王公卿家中执掌家务之所。

  ③宫中设左右马寮,掌管有关饲养马匹之事。

  ④藏人所是供奉天皇起居、掌管任命仪式、节会等宫中大小杂事之所。

  ⑤屯食是古代宫中及贵族飨宴时赏赐下僚吃的糯米饭团。

是晚源氏公子即赴左大臣邸宅招亲①。结婚仪式之隆重,又是世间无比的。左大臣看看这女婿,的确娇小玲珑,俊秀可爱。葵姬比新郎年纪略长,似觉稍不相称,心中难以为情。

  ①按当时风习,除天皇、皇太子外,男子结婚一般都去女家。婚后女子仍居娘家,男子前往住宿。适当时期后,新夫妇另居他处,或将妻子迎至丈夫邸内。

  这位左大臣乃皇上所信任之人,且夫人是皇上的同胞妹妹,放在任何方面,都已高贵无比。今又招源氏公子为婿,声势更加显赫了。右大臣是皇太子的外祖父,将来可能独揽朝纲。可是现在相形见绌,势难匹敌了。左大臣姬妾众多,子女成群。正夫人所生的还有一位公子,现任藏人少将之职,长得非常秀美,是个少年英俊。右大臣本来与左大臣不睦,然而看中这位藏人少将,竟把自己所钟爱的第四位女公子嫁给了他。右大臣的重视藏人少将,不亚于左大臣的重视源氏公子。这真是世间无独有偶的两对翁婿!

  源氏公子常被皇上宣召,不离左右,因此无暇去妻子家里。他心中一味认为藤壶女御的美貌盖世无双。他想:“我能和这样的一个人结婚才好。这真是世间少有的美人啊!”葵姬原也是左大臣的掌上明珠,而且娇艳可爱,但与源氏公子性情总不投合。少年人是专心一志的,源氏公子这秘密的恋爱真是苦不堪言。加冠成人之后,不能再象儿童时代那样穿帘入幕,只能在作乐之时,隔帘吹笛,和着帘内的琴声,借以传达恋慕之情。有时隐约听到帘内藤壶妃子的娇声,聊觉慰情。因此源氏公子一味喜欢住在宫中。大约在宫中住了五六日,到左大臣邸宅住两三日,断断续续,不即不离。左大臣呢,顾念他年纪还小,未免任性,并不见罪,还是真心地怜爱他。源氏公子身边和葵姬身边的侍女,都选用世间少有的美人,又常常举行公子所心爱的游艺,千方百计地逗引他的欢心。

  在宫中,将以前桐壶更衣所住的淑景舍(即桐壶院)作为源氏公子的住室。以前侍候桐壶更衣的侍女,都不遣散,就叫她们侍候源氏公子。此外,桐壶更衣娘家的邸宅,也由修理职、内匠寮①奉旨大加改造。这里本来有林木假山,风景十分优胜;现在再将池塘扩充,大兴土木,装点得非常美观。这便是源氏公子的二条②院私邸。源氏公子想道:“这个地方,让我和我所恋慕的人同住才好。”心中不免郁悒。

  世人传说:“光华公子”这个名字,是那个朝鲜相士为欲赞扬源氏公子的美貌而取的

关联知识:《源氏物语》是日本的一部古典文学名著,对于日本文学的发展产生过巨大的影响,被誉为日本文学的高峰。作品的成书年代至今未有确切的说法,一般认为是在一○○一年至一○○八年间,因此可以说,《源氏物语》是世界上最早的长篇写实小说,在世界文学史上也占有一定的地位。

 
神秘内容 Loading...

你可能对下面的文章也感兴趣:

 

上一篇:《出师表》(日汉对照)  
下一篇:[日文名著选读]吾輩は猫である 我是猫
[返回顶部] [打印本页] [关闭窗口]